Googleコアアップデートでのメディア閉鎖騒動から考える、本当の読者
数日前に「googleのコアアップデートの影響でメディアを閉鎖します」というアナウンスをした海外の某専門WEBメディアがあった。そのメディアは自社サイト上で閉鎖を宣言し、その理由としてGoogleの2019年6月のコアアップデートによって2日間で90%流入が減ったことを大きな要因として発表した(ちなみに後日談として閉鎖を2019年6月10日告知したこのメディアは、その翌々日の12日にメディアを継続すると発表している)。
こういう事柄が起きると、今のインターネットは自由だったり誰でもチャンスをくれる素敵な場所のように見えて、実はそうではなくお釈迦様の手の平の上、プラットフォームレイヤーに囚われているんだなと実感する。
僕が知る範囲でも、もっとインターネットは自由な場所だったように思う、いつの頃からか便利さや安全とのトレードオフで、その自由が見せかけのもの(もしくは決してフェアなものではないように)になってしまっているのかもしれない。
これに象徴されるようなGAFAに対する違和感みたいなものが昨今は世界的にも盛り上がってきてはいるが、ただこの記事で「だからこそ分散化すべきだ」 といったようなweb3論を書くのは長くなりそうなのでまた別の機会に書こうと思う(「あたらしい経済」の記事で書いてもいいかもね)。
ただ少しだけ補足すると、僕はあくまで現時点の考えではあるが、完全に分散化を推奨するというスタンスでもなかったりする。少なくとも自分の中で「完全な分散化が果たして僕たちにとって幸せなのか」という問いに対する自信が持てる答えがまだ用意できていない。
個人的には「ゆるやかなプラットフォーム」と「最適な分散化」というものが最適に混在する未来にこそ幸せがあるのではと、あくまで現時点では考えている。
さて少し話を戻すが、僕はこのニュースに少し違和感を感じた。
確かに検索流入が90%も下がれば、広告でマネタイズしていたWEBメディアとしては痛手だろう。広告クライアントからみてPVが下がればタイアップ広告などの価値も下がるし、アフィリエイトなどの広告であれば如実に売上は低下するはずだ。
でもふと思ったのは、では検索流入稼いでいた彼らの今までのアクセス、つまりその読者ってなんなのだろう、ということだ。
確かにGoogle検索からの読者は減っただろう。もちろん僕は彼らのサイトの直帰率などは知らない。でもそもそもその検索から流入していた読者のうちの大多数は、その時に欲しいと思った情報を検索ボックスに打ち込んで、その情報が得られたならば(もしくは得られなくても)、もう二度とサイトに戻ってきてくれないかもしれない可能性の高い読者だと推測することができる。
そんな彼らはもしかしたらメディア名さえ覚えてくれていないし、一度訪れたこともいつの間にか日々の生活の中で忘れてしまうかもしれない。
一方もしこのメディアのことが好きで、サイト名も知ってくれている読者は、そもそもサイトをブックマークしてくれているかもしれないし、仮にGoogle検索で上位されなくても、別のキーワードを試したり、記憶の片隅にあるドメインを打ち込んで直接読みにきてくれるはずだ。
別に今回このメディアはドメインを取り消されたわけでもなければ、どこかの国家のファイヤーウォールで遮断されたわけでもない。
メディアにとってはこの後者のような読者が、いわゆる「本当の読者」なんだと思う。
例えば本当に大好きな雑誌があって毎月その雑誌をいつも行く書店で買っていたとする。ある時行きつけの書店の仕入れが変わって、その雑誌が店頭に並ばなかったとして、それでその雑誌を手に入れることを諦めるだろうか。
その雑誌が本当に好きで読みたければ、隣町の本屋に行くかもしれないし、ネット書店で在庫がないかを探すだろう。それでも手に入らなければ、買っているかもしれない友人に相談するはずだ。
今回のこのメディアの閉鎖するというアナウンスは
「僕たちはいままでは多くの一度しかこないかもしれない、そのメディアではなくその記事だけを読みに来た人たちに支えられてお金を稼げていました。でもそういう人たちがGoogleの意地悪で来れなくなって、本当の読者だけしか見にきてくれなくなったら全然お金にならないので辞めます」
と表明したようなものだと思っている。
ちなみに僕はこのメディアだけを批判しているわけではなく、そのような見せかけの読者に対して非効率的に広告を出していたクライアント側も、その手段を慎重に考えたほうがいいと思っている(もちろんクライアント側も一部の広告は出している意識もないかもしれないが。これはこれでネット広告の問題点である)。インターネット広告は効率的かもしれない、でもそれは本当に効率的なのだろうか。
偉そうなことを色々書いているが、僕もメディアを運営する身として、今回の出来事は他人事ではない。彼らが陥っている状況も理解できるし、僕も一歩間違えるとそちらに行くかもしれないと危機感さえ感じる。
インターネットのおかげで、メディアと呼ばれるものを作るコストも手間も格段に下がった。それ自体とてもいいことだと思う。インターネットが生まれる前までは、メディアを作ることはもっともっとコストもかかったし、それを認知させるのにも時間と努力が必要だった。しかしこのテクノロジーの恩恵により、良くも悪くも世の中はメディアと呼ばれるもので溢れている。
でも本来メディアってそんなもんだったっけと思う。別に昔は良かったという話をしたいわけでもないが、僕が小さい頃に憧れていたメディアはもっとカッコよく読者を熱狂させていた。
メディアというものはそのコンテンツやスタンスで、なにかを創造することもでき、また壊すことのできる力をもったもののはずだ。一人の読者の心を動かし、そして世の中を動かすことができるはずのものだ。メディアは代替可能ではない、独自の色彩を放つべき器である。
もちろん多くの会社がビジネスとしてメディアを運営しているので、お金を稼ぐことは必要なことだ。しかしその金のために、メディアとしての本来あるべき姿とその目的を見失ってはいけない、このニュースを見て僕は強くそう感じた。
まだまだ現在のプラットフォーマーの支配は続くかもしれないし、それが違う中央集権的なプラットフォームと入れ替わるかもしれない。その都度、私たちは彼らの顔色を常に気にしなければいけないのだろうか。
もしくは近い将来、プラットフォームも分散化していき、今回のような中央集権的な問題は起りにくい世界が来るかもしてない。しかし分散化したプラットホームの世界で、ルールチェンジの難易度は非常に高くなるだろう。そこには都合のいいハックは存在しない、本質的な世界。それは理想的なようで、もしかしたら今よりも残酷かもしれない。
だからこそ今メディアを運営している人たちは、本当の読者がどのくらいいるのか、そしてその読者はどんなことを考えているのかを意識したメディアの運営をすべきだと、web2とweb3の間で、僕は考えている。
設楽悠介 Yusuke Shidara
https://twitter.com/ysksdr
https://jp.substack.com/
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